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ジャズ喫茶・ロック喫茶
MANTOHIHI(マントヒヒ)サイトについて

このサイトはジャズ喫茶であり、ロック喫茶だったMANTOHIHIの記録を残すことを目的としています。1971年の開店から伝説的な存在だったにも関わらず、ネットの検索をしても得られる情報は非常に少ないことから、サイトの設立を思い立ちました。

音楽好きのわたしは1960年代の前半からモダンジャズを聞き始め、60年代後半はフリージャズに傾倒し、70年代後半からはパンクロックからニュー・ウェイブ、ポストパンクのレコードをあさっていました。しかし、90年代の長く続いた不況時代は生活が困窮し、レコードを買うこともライブに行くこともできない状態でハードコアやクラブシーンの動向を全く知らずにいました。

2000年代に入ってボチボチと音楽を聞き始め、00年代後半にはクラブ通いを始めました。そこでわたしは少なからずの若い人たちが40年も昔の MANTOHIHI や阿部薫の名前を口にするのを聞き驚きました。阿部薫は70年代を駆け抜けたフリージャズミュージシャンで、当時のコアなフリージャズファンを虜にしていました。彼はMANTOHIHIでライブを行っています。

そこに当時の常連客の一人として感じるものがあり、情報を集めたサイトの設立を思い立ちました。ジャズ喫茶としてのMANTOHIHIの音楽性を作ったのは設立時のマスター木村洋二でした。当時の彼はバッハとジャズを愛する学生で、71年の開店から3年間ほどマスターをしていたはずです。わたしが常連客だったのはその期間です。

木村もわたしも特にフリージャズを聞くジャズファンで、わたしが開店後間もないMANTOHIHIを知り、通うことになったのは木村と意気投合したからです。60年代後半、フリージャズはアメリカの人種差別に反対する運動と重なる、カウンター・カルチャーの象徴的な音楽でした。

その頃、ベトナム反戦運動と反安保闘争が活発でデモが頻繁に行われていました。それは学生だけでなく、大勢の市民も参加するものでしたが、69年1月の東大安田講堂事件を境に全学連と機動隊が鋭く対峙するものとなり、一般の人たちはデモから離れていきました。デモに加わっていたわたし自身も行き場を失っていたときに MANTOHIHIと出会ったわけです。わたし同様、行き場のない者たちが聞く音楽はジャズであれロックであれカウンター・カルチャーとしての音楽でした。

MANTOHIHI設立から38年後の2009年8月19日にマスターだった木村は肺がんで亡くなります。同年11月28日、彼を追悼する会が元MANTOHIHIスタッフと常連客が集まって行われました。その折りにわたしがMANTOHIHIサイト設立の希望を持っていることを語り、実現したのがこのサイトです。

2012年3月5日
杉谷正明
info2012@planet515.com