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追悼 MANTOHIHIマスター"クマ"

木村洋二君が「クマさん」になる前のお話し

2012/4/15 森清高

マントヒヒに残した「クマさん」こと木村洋二君の影響は、本人が思っていた以上に大きなものだったと多分誰もが知っているが、彼がヒヒに居たのは実はそんなに長い期間ではない。

ましてヒヒ以前の彼の姿を知る人は少ないだろうから、僕はそれを皆さんに少し書き残しておこうと思う。

1.大学に入った頃

1966年4月、木村君と僕、うちのワイフは同じく、京都大学文学部L4というクラスに入りました。この文学部Lの4組というのは、教養部2年間だけの分け方ですが、何故か第一外国語がフランス語という50名の変なクラスです。

そのためか女性が京大では最多の15名もいる珍しい組なのだが、多分木村君もそして僕もフランス語を本格的にやるなどといった意識はなかった。

時代は偶然にも、ベトナム反戦運動と70年安保を控えて、学生運動が急速に過激化していく運命だったが(世界中がそうだった)僕らは無邪気な新入生で
「政治」や「思想」の嵐に巻き込まれるなど予想もしていなかった。

しかし京大は、60年安保闘争の後「全学連」が崩壊した後も「京都府学連」を保ち、自分たちこそ次の70年安保闘争で全国の学生運動の先頭に立つんだという気概を強く持つ雰囲気をまだ残していた。

まあ、幕末の勤皇の志士か、奇兵隊か海援隊か坂本竜馬か高杉晋作かという、
いわばエリート意識さえ濃厚でした。俺たちがやるんだと。

この大学の中でも、L4というクラスは代々?何事かがあると(というよりも何事かを無理やり起こそうと)、大学中のトップを切ってストライキ決議をするという「先進的な」組であったとは後で知った。まさか、こんな時代にこんな場所に入るとは。

木村君は、青森の八戸の出身です。東北出身者は滅多にいない。

僕は大阪阿倍野の旭町。すぐに親しくなったのか記憶がない。

しかし、えらい田舎から出てきたむさ苦しい男だが、陽気で誰とも打解けるというイメージだったかな。

当時の雰囲気は、とにかく難しい本を読まなきゃいかん。馬鹿にされる。

マルクス・レーニンも知らんのか?サルトルを読んでない?カフカは?ドストエフスキーは?三島は?「君には内的緊張感がないのか?」やれやれ。

それでクラスの有志で「読書会」をやろうとか「文芸誌」を出そうとか、いやはや急に左翼的インテリゲンチャに変貌しなければならない。付け焼刃。

木村君もこういう激流の中にあったと思うけれど、彼が読書会に出たりとか、熱心に変貌しようとした記憶はない。

実は彼は登山部に入っていたのです。

「京都大学学士山岳会」という大層な名前のクラブは、戦前1931年に今西錦司らがヒマラヤなどの海外遠征を目指して創立した部で、日本の登山史の中でも大きな足跡を残した名門です。

彼がどれほど登っていたのか知らないが、クラスの会合にあまり出てこなかったのは、このクラブ活動にかなり力を入れていたのかも知れない。

僕は高校時代から一人で山を登っていた。

話は少しそれるが、北朝鮮で亡くなったと言われる岡本武君(農学部)も、木村君と同じ学年で同じ山岳部です。

二人に交流があったのかは両君が亡くなった今では分からない。ただ岡本君は、北へ行く前に山岳部内では「伝説的な岩登り名人」であったというのは、木村君から後に聞いたのだったろうか?

ああ、俺も呆けてきたのかな?

木村君は、登山中に岩場から落下したらしく、それで恐怖感から登山部を辞めたと僕に話したことがある。

その頃僕はクラスの自治委員をやっていたが、討論の過程で木村君とよく「論争?」したのを覚えている。

既に新左翼かぶれしていた僕は、強引に何でも「スト決議」に持っていこうとしたが、木村君は前の方で何だかんだと「いちゃもん?(僕にはそう聞こえたが)」をつける。とにかく発言する。

しかし彼の意見が反対なのか賛成なのか、何を言いたいのかよく分からなくて、クラス討論をかき回すばかりなので(まあ僕はそう思っていた)、業を煮やした僕が木村君に向かって「お前は一体何を言いたいのか、分からん!」「結論を言え!結論を!」と壇上からよく喚いたものです。

つまり今から思っても、彼は社会学者に適していたのであろうと、僕は言いたいのです。

当時の彼の女友達の事はイソコ君が少し触れているが、僕は明確な話を知っているわけじゃないので、ここでは書きません。ただ彼は深刻な悩みを抱え込んでいたのです。

2.マントヒヒの頃

ヒヒを作り始めた経緯は別の文を書いたので参照して下さい。

何故、木村君に音響などを依頼したのかは思い出せません。多分彼も全共闘運動の崩壊後、自分の人生の方向を決めかねて、まだ京都でブラブラしていたのでしょう。その頃は、学校を辞めるか、就職するか、田舎に帰るか?と迷いながら鬱々と過ごしていた学生は多かった。

(そういう大学生・高校生・浪人らが結果的には多くヒヒに集まった)

僕が木村君にこういう店を大阪でやるから来ないかと声を掛けたら、彼は彼女とともにすぐに旭町に移住してきた。

「彼女」は彼の下宿の隣の部屋に住んでいて、ベランダ伝いに行き来していたとか。(どんなベランダや)

僕は二人のために、ヒヒの二階の6畳の間を空けた。

それから彼は急に「クマさん」になって、猛烈にヒヒの音響制作に取り掛かり始めたのです。意外に技術力、手先の器用さ、繊細さも兼ね備えた熊だった。

当時彼は趣味として、パイプを手彫りで制作しては、あの顔でパイプを咥えて悦にいってたね。なかなか凝り性のクマでした。

ある時彼は故郷の八戸で採れる食用菊を持ってきた。乾燥した紫色の菊の花びらを薄く海苔みたいに、お好み焼きくらいの円形に成形してある。関東から北ではおひたしにして食べるのだそうだ。これを関西で売れないかという相談だった。彼にしては珍しい商売気のある話だった。

ヒヒでは彼は存分に個性を発揮していた。その笑顔、話し振りに多くの人が惹かれていくのは当然だった。田舎育ちの山男を秘めた彼のJAZZ談義やインテリジェンスには絶えずユーモアがあった。あのノコギリをギーギー引くような前衛JAZZには参ったが。

彼の存在自体がヒヒの性格になって行った。

3.社会学者への選択

やがて彼はヒヒから去って大学に戻る途を選んだ。

僕とワイフは、ヒヒの開店間もなく一足先に大学に戻り、店を彼に託して京都に移っていた。

彼の下宿を使わせてもらったこともあるが、どうもあちこち引越しをしていたようだ。賀茂川の高野より少し北の土手下の下宿への引越しを手伝ったことがある。すぐ近くに旅館があったが、どうやら連れ込みらしい。ところが昼間から満員なのか、学生風のカップルが入ってはすぐに出てくる。二人でそれを土手からニヤニヤ笑いながら見ていた。

ある時、結婚式を挙げるから来てくれと言う。当時は結婚式を挙げるなどとは、とても恥ずかしい時代だったのに。

だから出席したくはなかったが、やむなく僕と信太君と二人が出席した。

さらに、僕に友人代表で挨拶をせよと言うので、条件をつけた。
 「俺が何を喋っても構わないのか?」とちょっと脅し気味に。

「構わない」と彼が返答。

確か下賀茂神社だったかな。僕のワイフと小さな娘も京都に来ていたが、ワイフは出席しないという。(僕らは当時流行の出来ちゃった婚で式なんぞ挙げていない。ヒヒで皆が集まってパーティをやってくれたが)

木村は当時、胃の大部分を切り取るという大手術を受けて、その時に奥さんと知り合ったとか。とにかく美人。それが一恵さん。

式には、驚いたことに京大の有名な教授がずらり。仲人も学者の人らしく、
「東の○○君、西の木村君と言われるほど−−−」と木村君を持ち上げた挨拶文を読む。えらい硬い本格的な・旧式な結婚式である。

僕の番が来てしまった。

「今日は偉い先生方がたくさん見えておられるが、やはり学者の道を歩もうと思ったら、こういう場所で結婚式を挙げて、こういう先生方に出席してもらわないとダメなのか」と話し始めた。

木村は意外にも前の席で笑いこけている。

有名な社会学の教授で学生運動にも同情的だった作田啓一先生(娘さんが偶然にも我々と同じクラスだったが、一年の秋に自殺し我々に大きなショックを与えた)も笑っているのが僕にははっきり見えた。

しかし、他の教授たちは怒って今にも席を蹴りそうな感じ。ヤッター。

その後、「お色直し」まであるというので、もう帰ってやろうかと思っていたのだが、何と木村夫妻はジーンズ姿に着替えて現れた!

これは、木村君のささやかな抵抗の表れだったのだろう。

彼は大学を卒業し、大学院に入り、そこから関西大学に就職した。

その辺のところは、ネットで検索すると、僕の知らない「業績」が沢山出てくるので見て下さい。どうも彼はちゃんと「社会学」を学問していたらしい。

論文の冊子をもらったことがあるが、読んだことはない。

そして彼は早くも40歳で関大の教授になり、亡くなる61歳までその職にあった。(京大に職を得られなかったのは俺のアジのせいかな?)

4.笑いの木村

彼は、大学の忘年会(クラスではなく、学部を越えた我々ともう一年下の全共闘世代の集まり)の常連で、よく「笑いの学会」の冊子やポスターを配っていた。

ネット上にそれらの学会での活躍が詳しく書かれているが、皆さんが余り知らない裏話を。

彼はある時、友人たちと「笑い茸」を知らないまま鍋に入れて食べたという。それでお腹が痛くなるほど長い時間笑い転げてと話してくれた。そこから「笑い」の研究に入ったというから、やはり山の「熊」なのか。

それから、笑いを数量的に計測するのに横隔膜の動きを測る機械を作るんだとか、吉本興業から50万円?お金が出たとか、笑いの「単位」を‘アッハ‘にしたとか、ますます奇妙な話を聞かされるハメになった。(横隔膜は哺乳類以上の動物にしかない)

1999年に僕が絵画の個展を神戸でやった時には、友人たちのパーティの翌日に一人で彼はやってきた。すごく僕の絵を気に入ってくれて「キヨタカ、こういう絵を100枚残せ!」と言って励ましてくれたのが今も懐かしい。

その時、絵の先生とうちの娘と4人で食事したのだが、彼は娘に「あなたのオヤジさんは昔は英雄だったんだぞ」と言ったので、だらしない親父しか知らない娘はびっくり!

大学の同窓会は今も続いている。木村が来るととにかく座が盛り上がった。

あの大きな身振りで、あの笑顔で、あの大声で喋りまくる。

ああ、木村がいたらなあと今年も思った。来てくれるだけでもいい。

木村よ、まだまだ話すことは山ほどあるぞ!もう一度出て来い!

徹底的に議論しよう!

お前の論理は滅茶苦茶だが、何故か楽しい。

2012/04/15 記