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MANTOHIHI の思い出

「阿部薫 1971 CD#1 アカシアの雨がやむとき」を聞いて

2007/11/8(ブログ Walk in Osaka より転載)杉谷正明

阿部薫は黙って立ち上がると、バスクラのケースを取ってきて楽器を組立てた。そして、何も言わずに演奏を始めた。ほどなく、西田佐知子の有名な「アカシアの雨のやむとき」のメロディが流れて、ぼくは誰彼となく顔を見合わせた。そして、阿倍のフリーインプロヴィゼーションが延々と続いた。これが初めて聞く、阿部の「アカシアの雨のやむとき」だった。

本アルバムの1曲目「アカシアの雨がやむとき」を聞くと、目の前でプレイするその夜のバスクラの輝きまでが目に浮かんで来る。1970年頃だと思うが確かなことは分からない。大阪天王寺だが日本最大の貧困層の街「釜ヶ崎」と目と鼻の先のジャズ喫茶「マントヒヒ」のライブの終わった深夜のことだ。狭い「マントヒヒ」とはいえ、店には入りきれない客が京都をはじめ関西一円から押し掛けた。ライブが終わってその喧噪も去り、深夜を回って残っていた常連客も大方帰り、すっかり静かになった店内の、わずかに残った数人の前で阿部は突然に演奏を始めたのだった。

先日は風邪気味の中、ジョルジョ・バタイユの小説『空の青み』に読みふけった。主人公のアンリは女をとっかえ引っ替え大戦前夜の1930年代半ばのヨーロッパを彷徨するデカダンスな資産家だ。ロンドンから始まってパリ、ウィーン、一旦パリに戻り、スペイン市民戦争直前のバルセロナへ、そしてカタロニアの寒村に逃れ、今度はドイツ、モーゼル地方へ。そしてフランクフルト駅のホームで女を見送り始めて一人になって終わる。

マントヒヒでの阿倍のライブは何回か行われ、開演前、ぼくは何度か阿部の相手をして近くの居酒屋で焼酎を飲んだ。ある時、マントヒヒの前で両手を拡げて、この街は育った街と同じ雰囲気で、懐かしい感じが好きだと言った。そのときの彼の笑顔が忘れられない。さらに忘れられない表情がある。ぼくは満員の客席に入れず、入口付近でプレイを聞いていたときだ。演奏を終えて、客をかき分けて出てきた彼をぼくは待ち構えていたのだが、その表情を見るやぼくは言葉を掛けることができなかった。魂をさらけ出した直後の凄みに、ぼくはすくんでしまったんだ。後で、その凄みは絶対的な「孤独」に違いないと思った。
彼との飲み屋での会話は、ほとんどがどーでもいいようなものでほとんどが記憶にない。しかし、阿部がセリーヌとバタイユの名前を口にしたことは覚えている。

『空の青み』も中頃まで読み進むと、この退廃的なストーリーの影に泣きたくなるような「孤独」を見つけるや、突然に阿部薫の顔が浮かんできた。阿部はこの小説の孤独に共感していたに違いないと、絶対的な確信に導かれるようにぼくは小説を読み進め、涙が出そうになった。

そして阿部薫のCDに耳を傾けたわけ。本CDは1971年10月31日東北大学教室でのライブ。ドラムの佐藤康和とのディオ。全てが71年ライブの小野好恵プロディースによる3枚のうちの1枚目。ぼくはさんざん阿倍のライブを聞いてきたので、レコードやCDをほとんの聞くことはない。でも、今回ばかりはいままでになく阿倍薫のサウンドが心地よかった。延々と続くフリーインプロヴィゼーションが心地良かった。これに触発されて、エリック・ドルフィーやジョン・コルトレーン、アルバート・アイラーを聞いた。

これらのミュージシャンのプレイをもう十数年も避けてきたようだ。この夏から始めたクラブ通いが阿部薫を引き入れたのかもしれない。70年頃、マントヒヒに押し掛けたファンで満員になった店内は、今のクラブとよく似ている。70年代も年が経つにつれて、音楽理論の専門教育を受けたミュージシャンが現代音楽の影響下にフリージャズをエリート意識の強い音楽にしてしまった。そして、ぼくはフリージャズを聞くことを止めた。それは、阿部薫が29才で亡くなった78年頃のことだ。


《補遺》
本CD『阿部薫 1971 CD#1 アカシアの雨がやむとき』は、Original Production/小野好恵、Album Producer/稲岡邦弥(unicom)、TOKUMA JAPAN COMMUNICATIONS からリリースされたもの。 録音の経緯などについては JAZZ ROOM サイトの「阿部薫のこと」ページに詳しく書かれている。