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MANTOHIHI の思い出

阿部薫の思い出

2009/9/9(Vic Fan Club : kumiko-page より転載)杉谷久美子

今日は阿部薫の命日だ。ジャズミュージシャン阿部薫は1978年の9月9日に29歳で自殺か事故死かわからない死にかたで逝ってしまった。
私はその死を2週間ほど後に「週刊朝日」で読んだという友人の電話で知った。しかし、阿部薫が死ぬであろうことは、死の直前に小樽で共演した友人のドラマー日野明に聞かされていた。それは仕方ないとしか言いようのないものだった。

私が阿部薫を知ったのはたしか1971年の夏のことだ。常連になっていた天王寺のジャズ喫茶マントヒヒで、京大西部講堂で行われるジャズコンサートにいっしょに行こうと誘われた。マントヒヒでかかっているレコードはニュージャズと言われていたもので、ジョン・コルトレーン、アーチー・シェップ、セシル・テイラー、アルバート・アイラー、マリオン・ブラウンなどを肩をいからせ聴いていた。また、そういう態度を斜めから眺めてもいるという屈折した若者の集まりでもあった。(あの夏は店に集まった常連がそのまま、年代もののブルーバードで夜明けの白浜海岸までとばしたりした。)
そんなわけで、10人ほどが西部講堂へ行った。入ったとたん、いきなりはじまったのが阿部薫のソロだった。白いコットンパンツに真っ赤なポロシャツでサックスを吹いていた若き阿部薫、19歳でデビューした彼はそのとき21歳だったはずだ。
なにかとうるさいみんなが声もなく聴いていた。終わってから一人が楽屋へ掛け合いに行って、なんと阿部薫を連れてきてしまったのである。ほかの演奏は聴かず、私たちは吉田山のふもとのスナックで、いまのいま知ったばかりの天才ミュージシャンと至福の時間をすごしたのだった。その場で京大の院生であったマントヒヒのマスターが、店でのライブを持ちかけ、すぐにマントヒヒライブが実現したのだったと思う。(30年も前の話なので覚え間違いがあるかもしれない。)

マントヒヒは阿倍野筋から西へ下った旭町通りにあった。いまは副都心計画とやらであとかたもない。だらだらとだんだん細くなていく道を下ると、道のあちこちには女装の客引きがたたずみ、ギターを抱えた流しがスナックで歌っているのがきこえる。
ライブは客がたくさん入った。私はすっかりスタッフをしてしまって、聴くことに没頭できなくて残念であった。反面、主宰者側で得意でもあった。そのとき来ていたのが、その後の京都での阿部のライブの世話をすることになる女性のYさんで、あちこちの店で顔を合わせていた私たちは、その後友人になった。
阿部はその夜から何日か店の2階に泊まっていったと思う。私も夜になると毎日出かけていった。たいていカウンターの隅で、セロリに塩をつけてかじりながら、テキーラかジンをストレートで飲んでいた。ある夜、突然楽器を持って立ち上がって、「アカシアの雨にうたれてそのまま死んでしまいたい」を吹きだした。あっと言う間に高くのぼっていつまでも続くていく音、私にはあれが最高の阿部薫だった。日本的湿気のある音でありながら、ジャズであり、ジャズを超えている音楽。そこに場違いな客が入ってきてマンガ雑誌を読みだした。阿部は雑誌を取り上げ客を外に叩き出して吹き続けた。
その後何度かライブをやったと思う。ある夜、数人で新世界にくり出し「づぼらや」でテッチリを食べた。彼はあんまり食べずにきげんよく話していた。中国料理の蚊の目玉だっけ? それからツバメの巣とか、そのころの私は初耳だったのでおもしろく聞いた。真夜中、店を出ると美術館の方角に人が固まっているのが見えた、と思ったのは私の幻想で、木が数本こんもり繁っているだけだった。阿部薫を大笑いさせたのは私ぐらいだろうねっ。

Yさんが阿部に連絡をして京都でライブを始めたのはそれからすぐだった。「蝶類図鑑」というジャズ喫茶で、真ん前に座って聴いた。楽器から出る唾がかかってきてうれしかった。数年間そういうふうに京都のあちこちで聴いていたと思う。Yさんはとことん入れ込む人で、世話が大変だったという話をのちのち聞かされた。
私が聴いた最後のコンサートは京都のどこだったか場所は覚えてない。前田正樹という舞踏家と共演した「なしくずしの死」だった。2人のアーティストの最高の演奏と踊りだったが、最初のころ聴いていた音よりも、重い苦渋に満ちた演奏だった。「なしくずしの死」というセリーヌの小説からとったタイトルが阿部を象徴していた。“終わった”って気がした。
その後は阿部薫を無理して聴く気がなくなってしまった。京都へ来ているかを知ろうと思わなくなった。なぜかジャズへの気持ちも切れてきた。それまでロックを無視してきた私だったが、78年にはパンク・ニューウエーブの空気の中に入りはじめていた。

彼を忘れない人たちがたくさんいるらしく、本やCDが出ていて、阿部薫の名前を知っている若い人も多い。彼を知っていたことで羨ましがられたりする。話をすることで思い出すことも多い。でも私はCDで彼の音を聴く気にはなれない。彼が“いまここで出した音”を聞いてしまったから。阿部薫が心で捕まえて楽器をとうして出した音は私の心のなかにあの時代とともにある。