ホーム > マントヒヒの思い出 > 寺田町源ヶ橋でマントヒヒの同窓会

MANTOHIHI の思い出

寺田町源ヶ橋でジャズ&ロック喫茶マントヒヒの同窓会

2009/11/29(ブログから転載) 杉谷正明

28日は阿倍野区寺田町源ヶ橋の居酒屋「芳養屋」へ30年振りで行ってきた。天王寺にあったジャズ&ロック喫茶マントヒヒの同窓会があった。同窓会というものおかしな話しだが、他に言いようがない。当時10代から20代の店の関係者の40年後の再会だった。正確にはマントヒヒが無くなくって、2度目の同窓会となる。多分、それから30年振りか。

マントヒヒは天王寺駅から西成山王町の飛田遊郭に通じる旭町商店街にあったジャズ喫茶だ。1970年代初頭の頃だった。ぼくは60年代の終わり頃、山王町の安アパートに住み、釜ヶ崎の寄せ場に通って日雇い労務者をやっていた。山王のアパートを出た後も懐かしいこの地域を機会あるごとに歩いていた。ある時、ジャズ喫茶ができていたことに気づいた。しばらくして店内に入ると、フリージャズのレコードが揃っていることが分かって常連になった。それからすぐ、そこは学生運動の元活動家と近所に住む高卒の何をやっているか分からない連中のたまり場なことを知った。梅田界隈の気取ったジャズ喫茶よりも、ずいぶんと居心地良かった。

その頃のぼくはフリージャズを梅田あたりのジャズ喫茶でリクエストして聞いていた。それを続けてリクエストするとイヤな顔をされるので、はしごして聞いていた。ところがマントヒヒではこころおきなくフリージャズを聞くことができたので、ほんとうに嬉しかった。しかし、ここの常連になって一番よかったことは阿部薫のライブを狭い店内で聞けたことだ。阿部薫のライブには店に入りきれないほどのジャズファンが集まった。そんな深夜、店の関係者ばかりの静まり返った店内で、阿部はバスクラのセットをはじめたことがある。何が起きるか固唾をのんで見ていると、阿部はいきなり「アカシアの雨がやむとき」のメロディーを吹いた。それは大阪の下町の夜の闇を引き裂いた。そして、フリーインプロビゼイションがいつ果てるともなく延々と続いた。忘れられない思い出だ。

今回の同窓会のきっかけは、マントヒヒのマスターだった木村洋二がこの8月に他界したことだった。みんな年をくって穏やかな人間になったというのが印象だった。とはいえ、とても熱い時代だった70年代初頭のマントヒヒだったので、その空気感を思い起こさせるせいか、非常に疲れた。予期しなかった嬉しい出来事もあった。1972年の阿部薫のマントヒヒでのライブ録音のCDが入手できたこと。「WHAT BEYOND」と題されたCDは、ライナーノートによると、この10月にリリースされたばかりだ。「追悼 木村洋二」とも書かれている。木村自身もリリースに関わっているらしく、どうやら完成を待たずに亡くなったらしい。それを聞くと当時の記憶がよみがえり、テンションがあがって、疲れているが眠れない夜になった。同窓会と阿部薫のCDがダブルで襲ってくる日なんて、あまりに強烈すぎる。

80年代初頭に非売品としてLPレコードが100枚プレスされ、その後、そのLPからの海賊版CDが出されたとライナーノートにある。当時、非売品LPの噂は耳にしていたが、ぼくは阿部薫のレコードそのものに興味を持っていなかったので聞いていない。阿部のライブは、その場だけで完結するものだと思っていた。年とともに消えていく記憶だが、阿部の音はそれでいいと思っていた。その後、1971年の東北大学でのライブ演奏のCDを聞いた。それは、ぼくは72年頃に聞いていた演奏と同じだと思った。しかし、この72年のライブ版は、東北大学のものと少し違う気がする。マントヒヒライブの方が、ずっと「その場限り」感が強いと思った。もう少し、しっかりと聞いて感想をまとめたい。

この音源はマントヒヒのマスターをしていた木村が録音したもので、当時、阿部と木村は仲がよかったことをぼくは横で見ている。「WHAT BEYOND」は、40年後、木村によって意図的に届けられたCDとしか思えない。ということで、このサウンドはなかなかしんどい。