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MANTOHIHI の思い出

マントヒヒへの序奏曲

2011/09/20 森清高

昭和は44年、つまり1969年は政治の季節だった。

1月18日、19日の東大安田講堂闘争に始まり、全国の大学や高校で学園闘争が一挙に広まり、国立大学75校中68校をはじめ実に大学の43%がストライキに入り、高校にも運動は広がっていた。

1967年頃から激しくなったベトナム反戦運動と連動して、ニュー・レフトや三派全学連の闘争は多くの学生を巻き込み、そのうねりがこの年1969年9月5日には日比谷野外音楽堂に3万人を結集し「全国全共闘連合」が結成されるという高揚を迎えていた。ブントから分離した「赤軍派」もこの会場に華々しく登場し、さらなる激動の時代が予感された。

直後の10・21の国際反戦デーでは騒乱罪が適用され、1,500人もの青年が逮捕された。この年1969年、反戦闘争と大学闘争で逮捕された者は、ほぼ1万人に達したという。多くの犠牲の上に、運動は爆発しまた急速に崩壊して行った。

これを敗北と呼ぶか、勝利と総括するかは個人によって異なるだろう。

しかし、我々、多くの青年、学生、高校生が大きな影響を受け、また長く人生に引きずることになったのは否定しようもない事実である。

この世界的な「若者の反乱」を政治面だけから見るのは間違っている。

ファション、音楽、アート、ヒッピー的生活、ドラッグ、暴走族とか、社会のあらゆる面で、古いレジュームに反抗し破壊するエネルギーが満ちていた。

「30歳以上の者は信用するな!」と、米国のリーダー、コーン・バンディットは叫んでいた。古い社会体制に対する文化的なNON ! だった。

マントヒヒはこんな時代に象徴的に生まれて、そして消えた。

私森清高は、安田講堂に赤ヘル関西部隊の隊長として籠城し、また桃山大のイソコ君も一緒にこの年の末まで約10ヶ月東京の拘置所暮らしをして出てきた。翌1970年、私もイソコも赤軍派の運動に少し加わったが、やがて離れた。 

3月末のよど号以降、私は阿倍野区旭町にあった自宅に一人で住んだ。小さい頃から長く住んだ家だったが、両親たちは引っ越して空き家になっていた。

活動から離れた友人やイソコらが泊まりに来て、重信房子も東京からカンパを集めに来阪した折には泊まっていた。7月に、私はよど号に関連したとして、この家でまたもや逮捕され23日間東京に送られ警視庁で過ごした。

処分保留で釈放後私はまた旭町のこの家に戻ったが、そこは次第に行き場がなくなった友人たちが泊まりに来るような、アジト的な場所になっていった。

活動のないアジトは、「神田川」「赤提灯」「いちご白書をもう一度」の世界に向かっていた。しかし、当面みんなの飯を何とかしなければならない。

その頃、大阪市大や桃山大のメンバーらが中国物産の会社を立ち上げていたので、栗や中国食品を家の表で販売することにした。

旭町商店街は、天王寺駅から西成の飛田遊郭に下って行く通り道になっていて、小さな酒場が多い通りだった。おばさんが一人か二人くらいで、カウンターだけの3〜5坪程度の小さな店が多かった。いわゆる場末の夜の街である。

「ここは阿倍野の旭町、朝日のささない夜の街」と演歌に歌われた下町である。西成の山王町はすぐ隣町であり、労働者の街である釜が崎や新世界も近い。

この夜の街には若いホステスなんか全然いなくて、仲居さんと呼ばれる割烹着を着たおばさんと年配の客ばかり。ビール1本飲んでから遊郭に行くか、そこのおばさんを相手にするかだった。

私の家にたどり着くまでには、1回は「お兄ちゃん!ビール1本飲んでいって!」と声を掛けられる街だった。

その仲居さんたちは栗が好きなものだから、酔客を連れてきておねだりして天津甘栗を買ってくれた。

当時栗は、日中友好商社しか中国貿易をできない時代だったから、夜店のテキ屋とか特殊な店でしか流通しておらず、結構いい値段していた。

栗は先に工場で炒ったのを持って来てくれたから、金魚の水槽に入れる黒い小石を買ってきて家にあった大きな鉄鍋に入れ、ガスで温めてその中に栗を放り込んで混ぜるという手軽な方法をとった。

天ぷら油を時々垂らすと、栗はよく光ったし芳ばしい匂いが漂った。

当時の価格でも、一袋が500〜2,000円だったから、一晩で結構稼げて、毎日大体5〜8人くらいの居候が飯を食えた。

その頃、天王寺駅の橋の上で、地べたに面白い絵を並べて売っている若い男に出会った。話していると泊まる所がない。彼も居候に加わった。

それが「矢島のとっつあん」であり、後にマントヒヒの表の看板やマッチ箱のデザインを担当してくれた。風の便りでは今は和歌山辺りにいるらしいとか。

なぜ喫茶店をやろうということになったのかは、今ではもう記憶に無い。

皆でワイワイと共同生活をしているうちに思いついたのだと思う。暇過ぎて時間はタップリあったし、大学への復学や就職も考えていなかった。

京都には学生たちの溜り場になるような店がいくつかあるが、大阪にはそういう拠点がないなあというのも一つの理由だった。

南大阪には行く当てのない大学生・専門学校生・高校生が多くいた。

レンガ、コンクリート、材木、ブリキ板、ペンキなど、栗の売り上げ代金から工面して次々と買い出しに出かけて運びこんだ。

私は大工仕事が好きで、図面無しでとにかく一番安い材料で店を作る積もりだった。工事は当初、私、イソコ(西田)、矢島らが中心になった。

店の入り口部分を低く掘り下げるのは意外に手間取った。もう冬になっていて、手が凍えたのを覚えている。

その頃、私は音楽をどうするか考えて、大学の同じクラスだった木村洋二君(クマ)に相談した。彼はすぐに賛同して彼女とともに旭町にやってきてオーディオ設備の制作に掛かり始めた。

分厚いコンパネを買ってきて、スピーカー・ボックスを手作りした。スピーカーやアンプなどは日本橋に行って彼が単体を買い集めて来て、組み立てていった。

店の表をどうするかだが、安いブリキ90×180cmを10枚買ってきて、とっつあんにペンキで描いてもらうことにした彼は即興で瞬く間に描いてくれた。

これを組み立てるのがちょっと大工事で、2階までの高さ、つまりアーケードまで届く高さになるので、その長さの柱をまず両側に2本立てた。そして木枠組みを作って10枚の絵を留めていった。白・黄・緑と華やかで、JAZZとアンダーグランドのイメージがよく出た。もちろん旭町では全く異質だったが。

もう1971年に入っていただろうか。

難関は、長屋なので隣の家との防音をどうするかと、トイレだった。壁にはグラス・ウールなどを詰め、上に一番安い板を張った。椅子も簡素に板だけの長椅子にした。誰か女の子がたくさんの座布団を作って持って来てくれた。

テーブルには、誰かがビールの木の樽を調達してきてくれた。照明器具は西成の古道具屋で神社の軒に吊るす明かりのようなのを安く見つけてきた。

什器備品や食器や流しなどもできるだけタダで集めて来た。

手伝ってくれるメンバーは入れ替わりやってきては、泊まって行った。もちろん彼らの飯代も栗で稼ぎながら工事を進めた。

他方、金塚交番所やポリも動き始めていた。私が外出しようとすると、尾行がいつも二人ピッタリと付いてきた。それで時々家の裏の屋根からトンズラしたり、旭町の複雑な路地を使って巻いたり、地下鉄で飛び降りたりした。

資金が足りなくて、10枚つづりのコーヒー券を先に刷って、それを友人たちに買ってもらった。レコードは高価だったから揃えられない。クマさんが持っていた少しのレコードから始めるしかなかった。

店の名前「マントヒヒ」がいつどのように決まったのか明確には覚えていない。「MANDRILL」というLPが当時流行ったのでそれも一つの理由だろう。

メンバーは、店の裏の1階の6畳、2階の4.5畳と6畳に分散して寝泊りしていた。一つの釜で飯を食い、電気こたつに足を突っ込んで雑魚寝をしていた。近所の風呂屋に行った。風呂屋では、刺青のヤクザやオカマのおちゃんも一緒なのは旭町では当たり前だ。

ある時私は何かの用事で京大に行った折に、私や木村君とも同じクラスだった西田さんにバッタリ出会った。

彼女は京都のJAZZ喫茶シャンクレールで長くバイトしていたので、店に手伝いに来てくれないかと頼むとすぐに了解してくれた。これで店の「看板娘」も決まり、ほぼ準備が完了した。

3月、マントヒヒはついに開店した。

店は、昼にバッハで始まり、ジャニス・ジョップリンが大音響で響き、コルトレーンが囁き、夜は淺川マキで暗く終わるアングラ的な雰囲気になった。

開店当初は、近所のおじさん、おばさんも物珍しさに来てくれた。

私はしばらくの間店を手伝ったが、運営はクマさんやイソコなどが中心になり、また急速に客が増えたので、その中から店を手伝う人が出てきた。新しい友人の輪が広がり、マントヒヒは活気のある隠れ家になって行った。

ヒヒの客は元活動家が多かったので、公安が近所の時計屋の二階に拠点を作り、客の写真を撮影しているのを私は見つけ、時計屋の娘を呼び出して聞いてみると、常時4〜5人がいると教えてくれた。

さらにポリスは、近くの金塚交番所にヒヒの客を引っ張り込んで職務質問をしたため、何人かで押掛けて連れ戻しに行くとか騒動も起こった。 

なにせこの交番は、かつて赤軍派が「大阪戦争」とか称して、すぐ近くの大阪市大医学部から白衣で出陣して火炎瓶を投げつけた、いわくのある交番だった。

公安は、夜になるとヒヒの真前に椅子を持って来て、二人が見張るという嫌がらせまでした。よほどヒヒが気になったのだろう。

余談だが、ずっと後2000年に私は重信房子を匿った容疑で逮捕されたが、その時の取調べの40過ぎの刑事が、自分が初めて赴任したのは金塚交番所だったとお喋りしだした。その時に先輩から、ここは怖い所が二ヶ所あるから注意しろと。一つは右翼の老人で、もう一ヶ所はマントヒヒという店だと。

僕は大笑いした。まあ、向こうはそれほど警戒していたということだ。

こうして、マントヒヒは波乱?のうちにも順調に船出した。

多くの高校生が集まったのは意外だった。不良の溜り場的な雰囲気になり、
ある時には、男女の高校生が勝手に裏に上がってイチャツイテいますがどうしましょうとか相談まであった。

時代だった。そんな時代だったと思う。

苦く、虚しく、不安定な、見通しの無い青春の時間を、楽しく、明るく、甘く、寄り集まる一時の空間と時間がそこにあった。

もう決して戻らない我々の青春だったけれど、後悔はない。

ヒヒに集った我々は、一つの時代を表現し、切り取ったのかも知れない。

この稿をクマさんに書き継いでもらいたかったけど、彼木村洋二君(関大社会学部教授)は、我々より一足先に逝ってしまった。

笑いの学会を主宰していた彼のあの笑顔と笑い声が今も近くにある。

我々は、寺田町の芳養君の店で追悼会を開いた。このH.P.はその時に杉谷さんが提案したものである。