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MANTOHIHI の思い出

人生の夏休み マントヒヒの日々

2012/1/7 杉谷久美子

はじめてマントヒヒに行ったのは1971年の春だった。わたしは南海電車の岸里駅に近い文化住宅でMと暮らしはじめて1年ちょっとくらい、毎日地下鉄の岸里から西梅田で阪神電車に乗り換えて仕事に行っていた。休日はたまに京都や奈良に行くほかは近所を散歩していた。広い道路を渡って坂を上がると住吉区で阿倍野神社があり、そこからは帝塚山や北畠の住宅街でいい散歩道だった。

当時もいまと同じで貧しく、たいていは家で本を読むかおんぼろステレオでジャズを聞いていた。これもいまと同じだが本とレコードだけはぼちぼち買っていた。友人が遊びに来て線路の土手下の我が家と暮らし方を見て、漱石の「門」そのままやなと笑ったが、まあそんな感じだった。本はバタイユの「空の青」「眼球譚」、プルースト「失われた時を求めて」、セリーヌ「夜の果てへの旅」「なしくずしの死」、グラッグの「シリトの岸辺」、ジュネ「花のノートルダム」なんか読んでいた。文学をじっくり読んでいたのはたしかだ。レコードはジョン・コルトレーン、セシル・テーラー、アルバート・アイラーなどのフリージャズが気分に合っていた。

4月の天気のよい日曜日、すみれ咲く竹内街道を歩いて当麻寺に向かった。折口信夫の「死者の書」を読んで訪れた当麻寺の庭は、したしたしたと死者の足音が聞こえるようだった。忘れられない経験をした日だった。
その帰りに散歩で何度か前を通ったことがあるマントヒヒに入ってみようと話が決まった。阿倍野銀座をくだって、居酒屋三喜屋で飲んで、もうちょっとくだって行ったら右側にマントヒヒがあった。
入ることを拒否するようなドアを思い切って開くと、カウンターと数個の樽を椅子にしたものに長髪の男の子たちが肩を怒らせて座っていた。奥へ入ると両側の壁にそってベンチがあり、座布団が置いてあった。奥にはでっかいスピーカーが置かれていてマリオン・ブラウンの「Afternoon of a Georgia Faun」がかかっていた。このレコードはわたしらも買ったばかりで大好きだったから大音量で聞けてうれしかった。なんか常連が多くて居にくいなと思ったのが第一印象だったが、いままで行ったジャズ喫茶の中でいちばん好みだった。

間もなく行った二度目は「奥は満席なので」とカウンターの席をあけてくれた。それがマスターの木村洋二さん(木村さんと呼んだことは一度もないけど)こと〈クマ〉だった。ちょっと恥ずかしげで人懐っこいひげ面のクマとすぐに仲良くなり、その夜は店が終わったあと我が家へ誘って朝まで語り明かした。
それからはしょっちゅう行くようになり、他の常連たちともなんとなく仲良くなってヒヒ派の仲間入りをした。わたしもMも人とつきあうのが下手で組織やグループになじまなかったが、ヒヒ派には素直に入っていけた。きっとみんな同じようなタイプの人間だったのだろう。

仕事帰りに行くときは地下鉄で天王寺へ出て阿倍野銀座をたらたらくだると、だんだん道が細くなりマントヒヒに辿り着く。たいていは三喜屋か丹波屋でたまに阿倍野銀座入り口の吉田洋食店やラーメン屋で晩ご飯を食べてから行った。この道をくだっていくときの高揚感はいまも忘れられない。
家から行くときは天神ノ森駅から阪堺線にのんびりと乗って今池駅で降り、歩いていくと、途中に飛田に曲がる道があり入り口は暗いが先のほうにピンク色の街灯が見えた。
阿倍野からも今池から歩いていても途中に淫美な雰囲気のバーや飲み屋があり、街角には街娼らしき女性や女装の男が立っていた。そして店先からはギターを抱えた流しの声が聞こえていた。

その年の夏になにが目当てだったか覚えていないがみんなで京大西部講堂へ行った。着いたとたんに始まった阿部薫の演奏におどろき、終わってから彼を誘い出して近くのスナックで話をした。そして阿部薫のマントヒヒでのライブが実現した。彼は店の二階に数日滞在し夜は店のカウンターに座ってジンを飲んでいた。ある夜、突然バスクラを吹き出すと、演奏を聞かないでマンガに読みふけっていた客の胸ぐらをつかんで外に放り出した。店も音楽もそういう雰囲気だった。
数日経って数人で阿部を誘って新世界のづぼら屋へてっちりを食べに行った。食べながら彼は中国料理の「蚊の目玉のスープ」について教えてくれた。もうひとつ珍奇な料理の話をしていたのだがそれは覚えてない。うんちくを披露する阿部の顔は少年のようで可愛かった。いまもそのときの笑顔が思い浮かぶ。

阿部薫はそれからマントヒヒへ何度か来たと思うが覚えていない。最初のライブを聞いたわたしの友人Yちゃんが惚れ込んで京都のジャズ喫茶のライブを何度か企画した。よく覚えているのは蝶類図鑑でのライブで、わたしは阿部薫の真ん前で聞いていた。つばが飛んできたとずっと自慢話にしていたのでよく覚えている。

マントヒヒの常連であるワタリと青少年が出演した淀川の河川敷で上演された日本維新派の芝居も見に行った。銭湯劇で芝居したあとに女形の玉水町煙(たまみずちょう けむり)が女装のまま店に来たこともあった。
毎晩店の隅に座ってパイプを削っていたモスラには削りかすで指輪をつくってもらった(まだここにある)。ブルースを歌っていたゴジラ、よくしゃべりかけてきたムシ、イソコには後にアルバイトを紹介してもらった。名前を忘れたが美少年の兄弟もいた。カップルも何組かいた。
近所の居酒屋には憂歌団の人たちがいた。

そんなこんなでまるで夏休みのように楽しい時間だった。わたしは働く時間以外はマントヒヒの人であった。かつてこんなに楽しく遊んだことはなかった。いっしょに京都へアビー・リンカーンとカーメン・マクレー(2回)のライブに行き、アート・アンサンブル・オブ・シカゴのコンサートは京都の野外と大阪サンケイホールに行き、ガトー・バルビエリ、セシル・テーラーも聞きに行った。

ある夜のこと。もう閉店という時間になったのに二人連れの客が腰を上げない。店を閉めても中でみんなが和気あいあいと飲んでいるのを知っていて、おれらもまだ飲みたいという。閉店したからダメだとクマが断ったとき、一人が唯一の女客だったわたしの肩にちょっと手をかけた。クマはカウンターを飛び越えてその男をなぐりつけ、それまで黙っていた常連たちが「外へ出ぇ!」とドアを開けた。絵描きの青年は箒を持って飛び出した。そして道路で大乱闘。警察がすぐにきてみんなを連れて行った。2時間ほどでもどってきたけど、今度はその二人連れもいっしょでまた飲み直した。待っている間にカウンターで話し相手をしてくれた少年ゴウは16歳でデビューした18歳だった。いまは沖縄にいる。

そうした日々は3年くらいは続いたがみんなぼちぼちと大学を卒業したり就職したり結婚したりでマントヒヒを離れていった。
わたしとMもじめじめした岸里を離れて泉北の公営団地に引っ越した。1LDKだったが明るくてベランダがあった。はじめての文化生活を3年。そしてなにもないままに自営業に踏み出して、住まいを仕事場の近くに変えていまに至る。そしていまも変わらぬ貧乏暮らしが続いている。

マントヒヒから離れてもクマはよく泉北まで遊びにきて泊まっていったし、わたしらもクマが借りていた能勢妙見の小さい山にある一軒家に泊まりがけで遊びに行った。
わたしがいまも野草に詳しいのは、クマと泉北のまだ開けていないところを歩いて教えたもらったのと、能勢を散歩して教えたもらったおかげだ。アケビをとったり、たらの芽を折ったり、キノコを探したりした。マタタビや薬草も教えてもらった。
楽しい時期が終わったのはクマが大学教師への道を歩み出したころで、最初のうちは朝起きられないというので何度かモーニングコールした覚えがあるが、だんだん疎遠になっていった。

わたしのマントヒヒ時代は1971年にはじまって3年くらいで終わっているが、記憶はその以前、その以後と比べて不思議なくらいに鮮明に残っている。それだけ強烈な個性を持った人たちと時代を共有していた幸せを感謝しつつこの一文を書いた。

それから40年経った。いまのわたしは相変わらず読書と音楽の日々を送っているが、反原発のデモにも行く。
数年前から谷町9丁目のジャズ喫茶SUBへよく行くようになり、SUBの持ち主でベース奏者の西山満さんとその同志のギター奏者竹田一彦さんと仲良くなった。SUBは1970年に開店してずっと維持されてきた店である。同じころに谷9と天王寺に特徴のあるジャズの店があったのだ。西山さんはいつも「この店は41年やっているんや、内装は開店のときのままや」と言っていた。そのたびに、そのころわたしはマントヒヒに居たんやなと思ったものだ。西山さんは去年の夏に亡くなられたが、SUBは若い人中心に店が維持されている。
わたしが天王寺でマントヒヒにいるころ、SUBには西山さんを囲んでミュージシャンやファンがいて、両者は交わりがなかった。いま、わたしはSUBにときどき行って竹田さんや若い人たちの演奏を聞いている。壁にかかったマックス・ローチの「ウィ・インシスト」のポスターを見るとマントヒヒを思い出す。