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MANTOHIHI の思い出

創設期のドタバタ劇—イソコの思い出

2012/4/25 西田篤生

マントヒヒの創設にかかわるメンバーは4人。店の中心だったクマゴロウこと木村君は生き急いで、さっさとあの世に逝ってしまったし、矢島君は連絡がつかない。森君と僕の2人になってしまった。2人とも馬齢を重ね、後期高齢者とは言わないが訃報の連絡で再会するような年代になってしまった。
あの時代を記録に残す思いにかられて、この駄文を書くことになった。40年をさかのぼる今は昔の物語である。

そのー1 清高さんからの誘惑

元活動家とか言う人種は「場」「方針」を失うとやることがなく、毎日ブラブラする人種だ。
気力をなくした僕も毎日何もすることがなく、無駄な時間をすごしていた。特に2/14日のバレンタインデーの日に同志社大学での内ゲバに動員され、消耗しきってしまった。
日本橋の電器屋街の裏にあった中谷氏のマンションでゴロゴロして、自分が何かをする訳でも無いのに「何かおもろいことないかなぁー」とつぶやいて京大出版会やら、堺物産やらにかかわり、チョロチョロしていた。
「思想は言語と言う意識作用の表象によってのみ媒介される。実践行為は実在の場における単純なる自己運動によって表現される。
故に思想は実践行為の原理としてこれを媒介することはない。いかなる実践思想といえども永遠にそうである。(吉本隆明、擬制の終焉)
「まさに人間の行為に於ける合目的性は、ブルジョア社会の歴史的論理的運動=単物弁証法—史的唯物論及び経済学、上部構造、イデオロギー形態として模写せしめ、かつこれを捉え直す人間は、その合目的的実験主義的実践と革命的実践に転化せしめるのである。(塩見孝也)
こんな文章を読まされてもなーんも解らんし、これで活動したわけでもない。当時は難しく言うのがカッコよかったし、アホナ学者はマルクスやレーニンの文章を引用していればよかった。どういう状況での文章か検証しない引用だから栞とホッチキスがあればいいのである。僕らは、要はベトナムで戦争があり、人が殺されており、平和憲法と矛盾しており、戦争に協力する自民党政権は打倒しよう、である。
メ一杯運動したけど政治闘争の昂揚期は過ぎてしまった。

友人の一人である、若宮正則君は誰にも連絡せずペルーに渡り山岳ゲリラのセンデス・ルミノソに参加すると言う自己決起主義の道を歩んでしまう人も生まれた。
僕はただ何もできず、何もせず、ブラブラするしかなかった。
そんな折、森清高君から「ブラブラ遊んでてもしゃあないやろ」「喫茶店でもやろうと思うんやけど、手伝えへんか」と話があった。
金は無いけど時間はある。あれこれしゃべっているうちに、少しずつイメージが浮かんできたものの理解できたのはアングライメージだけ。
ジャズもロックもよう分からんし、絵の方もまるっきりダメだったのだが、既成概念を打破するする破滅指向性だけを確認事項として手伝うことになった。
まず、店らしくするための改造だ。元々はインドカレーのみせだったのだが、全く気に入らない。清高君と2人で厨房の穴掘りから始めた。床を剥がし、スコップで土を掘り出し、流し台の位置を変えカウンターの改修やらコンクリーを練って床を固めたりと・・・・。
所が作業を始めようにも物はない、資金はない、てなことで、突貫工事とはいかない。清高君がバイトで稼いだ金や友人から借りた金、近所から調達したノコギリやコテ等手に入れば工事を行い、調達に二三日知恵を出し合い、行ったり来たりの作業だった。
何とかレンガを手に入れコンクリートを練る頃には店前が工事中らしくなったため、色んな人が声をかけてくれた。その人たちにも
知恵を拝借した。

熊五郎君こと木村君も京都から通い始めてきて、工事は本格化する。
同時期に店の「カンバン」の絵を作らなければならず、「イソコ、お前描け」と清高君が言うが絵心は全く無し。
天王寺の歩道橋でアクセサリーを売っていた矢島君を清高君がスカウトしてきた。これでメンバーが4人そろった。
エッチラ、オッチラ作業を進めた。熊五郎がスピーカーを作るために厚手の合板を買ってきて、糸鋸でウーハーをはめ込む穴をあけた。その切れた丸板をテーブルにすることにしたため、糸鋸切りは僕の作業になった。テーブルの足元はビールの樽だったが、清高君がどっかから調達してきた。
防音工事は笑い物だ。いかんせん資金がないのだからしかたがない。
発泡スチロールのベニヤサイズの物を買ってきてまず、壁に貼り付け、その上に「ふとん」を張り付けたのである。
夜な夜な商店街を歩きまわって、拾ってきた。(当時野宿していた人ごめんなさい!!)
どういう訳か飛田会館の前には、時々フトンがあったのだ。
フトンを壁にあてがい、葉板をその上からあてて、打ち付け何とか落ちないように汗をかいた。葉板は当初カンナを掛けるける予定だったが大変なのでそのまま使った。熊五郎の考えでは葉板をマホガニー色に塗装する予定だったが、液が高額だったので墨汁にした。これは意外にいい感じに仕上がった。

そのー2 どうしてる矢島のトッツァン??

矢島君はマントヒヒに寝泊まりすることになった。何せ家賃はいらないのだから。
矢島君の話によると、出身は何処か忘れたが、大手企業の工場で働いていたそうだが流れ作業で大けがをしたのを機に、チャップリンの映画のようなオートメの作業は肌に合わなかったので、辞めて旅にでることにしたそうだ。公園や観光地で似顔絵などを描いて小金を稼ぎ、アクセサリーを売っては生活していたとのこと。

絵は全くの我流とか。そこに清高君からジャズ喫茶の話を聞き、人間関係複雑にならないならば、ok とのことで、活動家アレルギーは無いとのことだった。逮捕されるような事に巻き込まないでほしいと言っていた。
さて、入りぐちの「カンバン」である。
土台の赤レンガを組み直し、支柱を天井までーーつまりアーケードの屋根までーー立てて、横組みの木を渡してしっかりと釘でうちつけた。トタン板を縦に立てて3枚分。かなりの高さだ。彼は3×3の9枚分の広さのトタンに一気に絵を描いた。描かれたトタン板を恐る恐る上へ上へと張り付ける作業は見ていて危険だったが、思ったよりスムーズに行った。清高君の記憶では最後のアーケードとの固定は彼が2階の窓わくから木にへばりつき、取り付けたとか。
入口のドアの所のレンガの主柱は僕がエッチらコッチら組み立てた。
完成後、記念に手に墨を塗り僕の手形を押した。
また、僕はカンバンと似たような絵を矢島のトッツァンにたのんで描いてもらい、当時上本町にあった「上六マッチ」に行って発注した。

そのー3 どうしてるーカッぺとヨッコ

開店に向けてコーヒーカップの注文やら、コーヒー豆の調合(熊三担当)食事メニューの献立(矢島担当)やら色んな打ち合わせをしながら段々と店の雰囲気が感じられだした頃、清高君が開店に合せて資金調達の手段として11枚つづりのコーヒー券を作って売る、という手法をあみだした。
一杯いくらの金額だったか忘れてが、十枚綴りの料金で売ろう、と言うのだ。僕は大学に返って「ガリ」を「切り」何枚刷ったか忘れたが確か赤い色の紙に印刷したように思う。
友人達に買ってもらった。矢島君は「俺、天王寺で売ってくるわ」といって成果をあげてきた。
ある日作業していたら女子高生が3人「店はここですか?」「矢島さんて言う人いますか?」と入ってきた。男4人のむさ苦しい所にはなやいだ声が入ってきたのである。「面白いことしてんねぇ」とか「もっと小奇麗かと思った」とか色々話をしたものである。
それが、ヨッコとカッぺ、で後の1人は名前を忘れた。彼女らはその後も時々店の進み具合を見に来て、日曜日にはサンドイッチ等の差し入れをしてくれたり、勿論開店後も同級生やら友人を連れてきてくらた。うすぎたなくて、正体不明のアングラ風の店にセーラー服の姿は以外と似合うものであった。
マントヒヒが南大阪で口コミで話題になったのは、彼女らの功績が大である。

その—4 熊五郎の思い出

今となっては熊さんこと木村洋二君のことを話すのは亡霊との会話見たいな話しになってしまうのが非常に残念なことだ。
熊五郎は清高君と同じ京都大学文学部の学生で清高君が連れてきた人で、清高君も僕もジャズなんて何にも知らないから、彼がジャズ喫茶「マントヒヒ」の主人公である。
彼と日本橋の電器屋街にウーハーやツイーターを買いに行った時の彼の笑顔や、足取りがスキップしていた姿は忘れられない。
アンプは彼の友人に制作を依頼してあって店に運んできた時などは、まだ音を鳴らしていないのに、ワインで乾杯などした。
確か彼が自分で持っていたジャズのレコードは20枚程で、当時心斎橋にあった坂根楽器にジャズとロックのレコードを20枚ほど後払いで購入して、「ジャズとロックの店」といいながら僅か40枚ほどでオープンしたように思う。
そのロックのレコードの1枚にマンドリルというグループがあり、レコードのジャケットにマントヒヒの絵が描いてあり、ある日誰かがこのジャケットを見て「おい、この絵、酒に酔った時の清高君に似てないか」と言ったのがきっかけになって店の名前を「マントヒヒ」とすることになったのである。
店の奥の1Fと2Fにはたえず数人の男たちが遊びに来ていて、毎夜のように酒を飲んではワイワイ、ガヤガヤと論議をしたものである。
僕はここで当時流行作家の高橋和巳の小説をほとんど読んだし、「家畜人ヤプー」を読んだのもここだ。サルトルやポール・ニザン、イヨネスコ、パヴェーゼ等をかじったのも・・・・・・・。
クマさんは論議が白熱して来たり、自分の説が批判され窮地に陥ると「そりゃぁ、アホじゃぁ。アホな奴がそんなこと言うんじゃ」とか「クソッタレー!」などと笑いながら大声をあげるので、矢島のトッツアンが「ありゃぁ、熊みたいだなぁー」と言ったことから熊五郎とかクマさんとか言われるようになった。僕の「イソコ」も皆でマージャンをしていて僕が何かにつけてクマさんに逆らってイチャモンをつけていたら、彼から「お前は何かにつけてイチャモンつけてギャァギャァ騒ぎよる。まるでニワトリみたいだ。こら、ニワトリ!黙れ!てなことからジャン牌から「イソコ」のあだ名を拝命した。
また、サルトルが卒論とか言う馬場君もゴロゴロしていて実存とは何ぞや!とか言っていて「そりゃぁ、田中吉六の主体」とかわらんがなぁー」と言ったら、こら!イソコ!もっとまじめに聞けなどとクマさんにどなられたりした。
我々は誰もが豊かではなかったが、毎夜のように多人数で論議しながら毎日を送れたのには訳がある。
これも清高君が発案したのだが開店するまで中国の天津甘栗を仕入れ、工事をしながらその栗を売って稼いでいたから出来たことである。清高君は元々ここに住んでいたため近所のオバチャン達とは顔見知りである。その上京都大学に入ったインテリで、おまけに赤軍派の幹部とかで話題性には事欠かなかった。近くに親類が経営する大杉製薬という会社もあり注目の的だっだ。
とにかく、飲食街でもあり、オバチャン達が酒に酔っ払った客を連れてきて「清ボンの所の栗を!」と言って買ってもらった。特に向かいの丸山のオバチャンにはお世話になった。
多人数の食いぶちと酒代、開店に伴う出費をまかなえたのはひとえに「栗」の売上である。
場所が飛田遊郭の入り口だったため、ヤクザらしき人が誰の許可を得てんねんーと文句を言ってきたことがあったが学生がやっていること、その人が丸山のオバチャンの知人の店の客であったことなどから、ウヤムヤになった。
09年8月20日、清高君から携帯に電話が入った。「オイ、木村が亡くなった。葬儀は自宅の近くの寺。都合つけろ。昔のメンバーに連絡しろ」とのこと。愕然として足が震えた。
1年ほど前に、「仕事をリタイアした。近々遊びに行く」と話をしたのが最後になった。
葬儀に参列。とにかく同窓会をやろう。とのことになり芳養屋をやってる芳養君に無理を頼んで集まることした。当然のことだが皆年を取っていた。木村夫人から亡くなる前後の情況やら、近況の生活姿、大学での活動等話を聞いた。ゼミの学生が阿部薫のレコードをCDにしていて配ってくれたのには驚いた。写真も絵も何もない純白のレコードは今でも我が家の棚にあるが・・・・。
死と言うものは、たいがい突然訪れるものだ。(近親者を除けば)
心の準備も何もあったものじゃぁない。
本人に聞こうとしても黙して語らずだ。我々は想像するしかない。死を想像し「かって」を想像するしかないのだ。
マントヒヒ時代は展望のない時代の唯一の明るい輝ける青春のトキだった。彼は大学院に行こうかどうか、吉田民人先生とのかんけいやらで「詰まって」いたと思う。70年安保・全共闘運動などの政治的昂揚期は下火になりつつあったし、各々個人も私も「詰まって」いた。激論を交わし、生きる価値観を追い求めて、あがき、もだえ
次のステップへと向かう助走のときだったと言えると思う。
木村君の亡霊は今でも僕の内に生きている。
マントヒヒ時代の後の出来ごとであるが。
彼の姉さんが今で言う政府認定拉致被害者の一人であるということである。
私は当時在日本朝鮮人総連合会、つまり朝鮮総連と親しい関係にある仕事をしていた。私の上司達が訪朝することになっていて彼からその相談を受けた。母親が病床にあり、あまり長くはもたない。ついては何とか娘を(彼の姉)日本に返して母親と合せてやりたいー何とか話をつけてくれーとの依頼である。しかし何も出来なかった。霧は深く、闇は暗い。
彼との距離は彼が住んだ能勢との距離もあるが疎遠になってしまった。
彼がマントヒヒを離れてすぐだったか、体調がすぐれないとのことで、医者に行きたいがーーと相談をうけた。
とりあえず、僕の保険証で病院に行ってイソコになりすまし、薬をもらって治療したらエエやんか、と行ったところ胃潰瘍は思った以上に重傷ですぐ手術することになった。真相を話して事なきを得たが笑い話の楽しい思い出の一つである。

その—5 マントヒヒグラフティー

開店の時期も決め、準備もほぼでそろい始めたころか我々の行動はあわただしくなってきた。先に書いたチケット売りもそうだし、まずサクラでもいいから店に来てもらわんと話にならん、ということで宣伝活動をしてゆく。仲よくしていた元活動家諸君に連絡したり、僕は大学に返って女の子に宣伝したり、、ジャズ喫茶には「落書き帳」が当時どこにもあったのでそれに書きこんで宣伝した。
僕は東京で裁判を抱えていたので、新宿二幸裏にあった「ディック」?とやらにも書き込みをして来た。
清高君は市大病院の看護婦さんをオルグ、つれてきたのはいいが
彼女は住みついてしまうし、熊五郎もつきあっていた彼女をつれてくるし、出入りしていた友人達も彼女といっしょに論議に加わるなどにぎやかになったが、矢島のトッツァンと僕だけは指をくわえているほかなく、そんな夜僕はアパートに帰ったりした。
こんな事もあった。
店が開店すると客は口コミで聞いた人たちがボツボツ。常連客も増え順調にすべりだしたのだが、何せ活動家、元活動家が多かったため、店から出た客が通り路にある金塚交番所によく引っ張られたり、職務質問を受けたりした。店に電話が入るたびに抗議に行った。
ある日、客が交番に連れ込まれた。それッーと清高君といっしょに、交番の前で職質するな!とアジ演説を行った。すると何事か??と人々が集まりだし、応援に来たお巡りが「清高君、演説をやめなさい」と言ったため彼が激高、益々人が増え、職質を受けていた人は無事帰えされたが、この金塚交番は、僕の後輩連中がかって火炎瓶をほうりこんだ所だっただけにヒヤヒヤ物だった。
こんな事もあった。
夏帰省していた僕は鳥取市内の本屋に車で立ち寄った。わずか5分程だったが駐車違反のシールを貼られた。近くの交番に文句を言いに行ったら「君が西田君か。大阪でえらいことやってるそうやないか、ええかげんにせい」と言われた。どうもマントヒヒは党派の人集めの手段のように監視対象になっていたようだ。
その後ヒヒは多くの話題をまき散らしながら2代目岡田君(ヨイヨイ)3代目は僕の友人の田上君(タ—さん)へと引き継がれてゆく。「優歌団」のメンバーが歌ったとも聞いたし、芥川賞作家の町田康がエッセイでマントヒヒのことを書いてるし、あの時代の象徴的な店だった。田上君は今病気療養、リハビリに励んでいる。彼にも何らかの形でマントヒヒ物語に参加してもらおう・・・。